王仁三郎の神観
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王仁三郎の神観

 宇宙根本の「力」を体現するものは、すでに述ぶるがごとく、宇宙を機関として、無限、絶対、無始、無終の活動を続け給うところの全一大祖神天之御中主神、一名大国常立尊である。この意義において、宇宙は一神であるが、宇宙の内部に発揮さるる力は、おのおの分担が異なり、方面が異なり、性質が異なり、軽重大小が異なり、千種万様、その窮極を知らない。そしてこれらの千種万様の力は、おのおの相当の体現者をもって代表されている。この意義においては、宇宙は多神によりて経営され、いわゆる八百万神の御活動である。由来一神論と多神論とは、相背馳(はいち)して並立することが出来ぬもののごとく見なされ、今日においてもなお迷夢の覚めざる頑冥者(がんめいもの)流が多いが、実は一神論も多神論も、ともにそれだけでは半面の真理しかとらえていない。一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、これを捲けば一神に集まり、これを放てば万神分(わかれ)るのである。この意義において、天地、日月、万有、一切ことごとく神であり(汎神)、神の機関である。小天之御中主神である。
(『大本略義』「天地剖判」)


神素盞嗚大神
上記の神観について、王仁三郎の孫にあたる出口和明(やすあき)氏は、著書『出口王仁三郎の神の活哲学』(御茶の水書房)の中で、次のようにわかりやすく説明しています。
 「宇宙を一大人格ととらえてみよう。宇宙は一つ、その本体は宇宙の活動力の本源である真の神一柱、一神観である。
 しかし太陽も月も地球も星も、その他いっさいが宇宙の懐にあって活動しているように、真の神の力徳(りきとく)の大小の変化にいちいち神名をつけた時、それが八百万の神々となる。また真の神から生まれたいろいろのエンゼルや古代の英雄を神と呼ぶ場合もある。つまり多神観だ。
 巻けば一神、開けば多神で、一神即多神、多神即一神である。
 宇宙間のすべてが真の神の霊力体で作り出され、分霊(ぶんれい)、分力(ぶんりき)、分体(ぶんたい)を受けている。これは汎神論である。ただ王仁三郎の汎神論で注意すべきは、「石ころ即仏」、「木の葉即仏」ではなく、石ころも木の葉も真の神の一部分だということである。
 別の角度から説明しよう。ここに一冊の本がある。つらぬかれているテーマは一つだ(一神観)。だが開けば何百ページに分かれ、それぞれに意味がある(多神観)。そしてどのページも本の一部だ(汎神論)。ただし本そのものではない。」
とはいえ、王仁三郎の多神論も汎神論も、真の神(王仁三郎曰く「天地万有の創造主」、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」等)を便宜的に説明するためのもので、本質的には一神論といえます。

王仁三郎はこう述べています。
 「半可通的論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だといっているが、かかる連中はわが国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主神と称え奉り、その他の神名はいずれも天使や古代の英雄に神名を附せられたまでであることを知らないからである。
 真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にわが神道は一神教であるのだ」(『筆のしずく』五)


晩年の王仁三郎