霊の礎






霊の礎

機関誌『神の国』(大正11〜12年) で発表され、大正13年に単行本として発行されたもの。『霊界物語』(第16〜24巻) の巻末にも転載されています。

出口王仁三郎の死生観や人生の目的、霊界の消息等を知るには貴重な文献です。



■第一

 霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。
 神界は神道家の唱うる高天原であり、仏者のいう極楽浄土であり、また耶蘇のいう天国である。



 中界は神道家の唱うる天の八衢(やちまた)であり、仏者のいう六道の辻であり、キリストのいう精霊界である。



 幽界は神道家の唱うる根の国底の国であり、仏者のいう八万地獄であり、またキリストのいう地獄である。



巡教中の王仁三郎
(千島国後島にて)


 ゆえに天の八衢は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中ほどの位地にしてすなわち状態である。人の死後ただちに到るべき境域にしていわゆる中有である。中有に在ることやや久しき後、現界にありしときの行為の正邪によりあるいは高天原に昇り、あるいは根底の国へ落ち行くものである。



 人霊 中有の情態(天の八衢)に居るときは、天界にもあらず、また地獄にもあらず、仏者のいわゆる六道の辻または、三途の川辺に立ちているものである。

(中略)

 天の八衢(中有界)にある人霊はすこぶる多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であって、ここにてまず霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない。ただちに高天原へ上るのもあり、ただちに地獄に落ちるのもある。極善極真はただちに高天原に上り、極邪極悪はただちに根底の国へ墜落してしまうのである。あるいは八衢に数日または数週日 数年間いるものである。されどここに三十年以上いるものはない。かくのごとく時限においての相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとによるからである。



 人間の死するや、神はただちにその霊魂の正邪を審判したまう。ゆえに悪しきものの地獄界における醜団体に赴くは、その人間の世にある時、その主とするところの愛なるものが地獄界に所属していたからである。また善き人の高天原における善美の団体に赴くのも、その人の世にありし時のその愛、その善、その真は正に天国の団体にすでに加入していたからである。

(中略)

 死後 高天原に安住せんとして霊的生涯を送るということは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨て、その身肉に属せるいわゆる情慾なるものを、いっさい脱離せなくてはならないからだという人がある。かくのごとき考えの人は、主として富貴よりなれる世間的事物をしりぞけ、神、仏、救い、永遠の生命ということに関して、絶えず敬虔な想念を凝らし祈願を励み、教典を読誦して功徳を積み、世を捨て肉を離れて霊に住めるものと思っておるのである。しかるに天国はかくのごとくにして上り得るものではない。世を捨て霊に住み肉を離れようと努むるものは、かえって一種悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受することは到底できるものではない。なンとなれば、人は各自の生涯が死後にもなお留存するものなるがゆえである。
 高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受けんと思わは、現世において世間的の業務をとりその職掌をつくし、道徳的民文的生涯をおくり、かくして後はじめて霊的生涯を受けねばならぬのである。これを外にしては霊的生涯をなし、その心霊をして高天原に上るの準備を完うし得べき道はないのである。内的生涯を清く送ると同時に外的生涯を営まないものは、砂上の楼閣のごときものである。あるいは次第に陥没し、あるいは壁落ち床破れ崩壊し転覆するごときものである。あゝ惟神霊幸倍坐世。



■第五

(前略)

 人間が現界へ生まれて来る目的は、天国を無限に開くべく天よりその霊体の養成所として降されたものである。決して数十年の短き肉的生活を営むためではない。ようするに人の肉体と共にその霊子が発達して、天国の神業に奉仕するためである。天国に住む天人は、是非とも一度人間の肉体内に入りてその霊子を完全に発育せしめ、現人同様の霊体を造り上げ、地上の世界において善徳を積ませ、完全なる霊体として、天上に還らしめんがためである。ゆえに現界人の肉体は、天人養成の苗代であり、学校であることを悟るべきである。



■第六

(前略)

 すべて天国の団体に加入し得るものは、神を固く信じ、篤く愛し得るものである。不信仰にして天国に到る者もあるが極めて少数である。いずれの宗教も信ぜず、守らず神の存在を知らずして天国へ往ったものは、大変にまごつき、後悔し、かつ天国や死後の生涯の在りしことに驚くものである。また現界にあるとき、熱心に宗教を信じ、神を唱えながら、天国に上り得ずして中有界に迷ったり、はなはだしきは地獄へさえ落つる人間もある。神仏の教導職にしてかえって天国に上り得ず、中有界に迷い、あるいは地獄に落つるものは随分にたくさんある。神仏を種にして、現界において表面善人を装いつつ、内心に信仰なく、愛なく、神仏を認めない宣教者は、死後の生涯は実に哀れなものである。また熱心にしてよく神を認め、愛と信とに全き者は、死後天国の団体に加入し、歓喜を尽くしつつあるに引きかえ、肝腎の天国の案内役ともいうべき宣教者が、かえって地獄落ちが多くて天国行きがすくないのは、いわゆる神仏商売の人間が多いゆえである。現界において為すべき事業も、また商売も沢山にあるに、それには関係せず、濡れ手で粟をつかむようなことや、働かずして、神仏を松魚節に使っている似而非(えせ)宗教家ぐらい、霊界において始末の悪いものはなく、かつ地獄行きの多いものはない。





神劇を演じる王仁三郎と側近たち