王仁三郎の予言
 王仁三郎と聖書





出口王仁三郎は生涯で数多くの予言を行っています。

予言者としての評価はすでに戦前から高く、予言の内容も複雑多岐にわたっています。

『いろは歌』や『大本神歌』のように教団機関誌に発表されたもののほか、王仁三郎が信者等に語ったいわゆる如是我聞(「私は王仁三郎からこのように聞いた」の意)も限りがありません。


(左から)王仁三郎、頭山満、内田良平

王仁三郎の予言には次のような特徴が見られます。
  1. 事がらを示した場合、起こるべき日時は明らかにしない。

  2. 日時を示した場合、起こるべき事がらを明らかにしない。

  3. 王仁三郎の行動が、そのまま予言になっている。

1つめの特徴について、王仁三郎は「伸び縮み心の船のままぞかし神の経綸(しぐみ)は人にありせば」と示しています。ある出来事が未来にプログラムされていても、人の心のありようと努力で、予定された時は伸びも縮みもするということです。したがって、時期を断定することはできません。逆に、時期を断定する予言ほど邪神界や低級霊からのものといえるでしょう。

2つめの特徴の例として、以下の歌を挙げます。
神の国大く正しき十年の正月五日は吾れ悩ましも
(歌集『東の光』大正7年6月)
神界の経綸に属するときは旧暦が使われる場合が多く、大正10年正月5日も旧暦で、新暦では2月12日になります。王仁三郎を悩ますことが起こる予兆ですが、それが何かわかりません。ですが、その日が来て、第一次大本事件(国家権力による大本弾圧)が勃発し、王仁三郎が獄につながれる予言だったとはじめてわかるのです。

上記について、出口和明氏はこう語ります。
    聖書に「その日その時を知る者なし、天の使いたちも知らず、子も知らず、ただ父のみ知り給ふ」(マタイ伝24章36)とあり、筆先にも「このこと(立替えの時期)は直にも知らさぬぞよ」とあるように、天機に属することを神が人に知らすはずがない。
    世の終末予言にしても、正しい予言なら明確な時期を明かされまい。弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現が56億7000万年というのも、それが実数ならば、人類とは無縁のものである。寓意(ぐうい)として理解すべきだ。時期を切った予言は邪神界や低級霊の暗示を受けたこけおどしだと、私は断定する。たとえばノストラダムスが1999年7月の人類滅亡を予言していたなどという解釈は、間違いなく悪霊の妄想であろう。
(『大予言事典』「出口王仁三郎の予言」 学習研究社 1997年9月1日発行)
王仁三郎も終末的な予言を信じる人々に次の歌で警告しています。
  • 天災地変(わざわい)を指折り数へ松(待つ)虫の冬の霜さき憐れなるかも

  • 預言のみ好きな信者はともすれば妖言過言(ようげんかげん)に脱線するなり

  • 立替を世人のこととな思ひそ立替えするは己が身魂(みたま)ぞ

  • 手も足も動かさずしてみろくの世早や来れかしと祈る曲神(まがかみ)

  • 大三災小三災(だいさんさいしょうさんさい)の頻発も人のこころの反映なりけり
兇党霊の発するデタラメな予言に惑わされ、せっかくの人生を台無しにしないように気をつけましょう。

3つめの特徴は「型」の思想と関わりがあります。この「型」の思想とは、つまり、神界で起きたことが雛型となって現界に起こり、大本に起きたことが雛型となって日本に起こり、日本に起きたことが雛型となって世界に起きるということです。王仁三郎の生涯や大本の歴史を調べれば、納得していただけるのではないかと思います。

その他、王仁三郎は著書『霊界物語』や、信者との会話の中で未来についても語っています。驚くことに、『霊界物語』には50世紀の未来の様子を描いたお話も登場します!

このように、王仁三郎の思いは、「世の終末」や「最後の審判」などを飛び越えて、「理想世界(みろくの世)の到来」に向けられています。

再び出口和明氏の言葉を引用します。
「…(前略)… "峠" を越えた向こう側 —— つまり物質文明が否定されるのでなく、それがもっと高い次元に押し上げられた新しい時代のことを、大本では "松の代"、"神国の世"、"みろくの世" という。この理想世界の実現はもう目の前に近づいており、これを知らせることが《立替え立直し》のキイ・ポイントである。みろくの世に近づくためには、《立替え立直し》の "峠" を越さねばならない運命を《いやおう》なく背負わされているが、各国家、各個人により、またそれぞれの心の動きや体力の差異などにより、おのおの越える度合いが違ってくる。荷物の軽い人・重い人・足の強い人・弱い人・鼻うたまじりで越えうる人・息も絶えんばかりにあえぎあえぎ越える人、さまざまな状態が見られるわけである。すでに峠越えは始まっているのだが、自分を含めて現実の周囲の状況というものは案外つかみがたいのかもしれない。
    また《立替え立直し》を、自分以外のこととのんきに考えてはならない。実は自分自身の問題なのであって、《立直し》が完成する時期はいつか、などということを考える人もいるが、その本人自身が《立替え》に励むことの結果として、本人そのもののうえに《立直し》が実現してくるのだ。出口王仁三郎の歌にも『立替えを世人のこととな思ひそ立替へするのは己が心ぞ』とある。
    問題は、立直された "みろくの世" というものを願うのはいいが、"みろくの世" は物欲や利己主義の延長にはない。地上天国といっても、これまでの物欲中心の享楽的な時代の再現ではないのだ。《立替え立直し》は、或る区切られた時間内での問題ではなく、実は人類が存するかぎり永遠に続く問題であるとともに、現時点での問題でもある。また、漠然とした人類全体の立替え立直しということにとどまらず、自分自身の問題であると受取らねばならない。だから立替え立直しは、つねに進行過程にある。楽は苦とともにあり苦は楽とともに存在するものとは、王仁三郎もしばしば語っている。この点を間違えると、甘いユートピア願望の心情でしかないことになる。『世のはじめ世の終りなるみろくの世なるもならぬも心なりけり』と出口すみもうたっている。…(下略)…」(『予言・確言』出口和明著)
立替え立直しは神と人との共同作業であり、両者の協調一致がなければ成就しないということではないでしょうか。

以上の点を踏まえて、下記にあります王仁三郎の代表的な予言をお読みいただければ幸いです。


出口王仁三郎の予言

(※参考文献    出口王仁三郎の学校『世界更生』第2号 将来する預言)

予言した年予言の内容成就した年
明治31年
(1898年)
王仁三郎、日露戦争を予言。明治37年
(1904年)
明治32年
(1899年)
10月
王仁三郎、静岡の長沢雄盾宅で星亨(政治家)と会談し、星の死を予言。

※長沢雄楯(かつたて): 静岡で稲荷講社を開いていた霊学者。


(左から)王仁三郎、長沢雄楯
明治34年
(1901年)
星、刺殺さ
れる。
明治34年
(1901年)
4月18日
王仁三郎、日露戦争の詳細を予言。

※長沢雄楯は当時をこう述懐しています。

「…(前略)…出口さん(王仁三郎)が神主になり、私が審神者で神さまの御降臨を願った。その時おかかりになった神さまのおおせに『この年の八月におこるか?それが延びたら明治三十七年の二月になる。三十六年の七月頃からだんだん開戦の機運が濃くなり、いよいよ翌年二月に始まる。戦いは連戦連勝であるが、いかんなことには軍艦七隻が沈没をまぬがれない。それから平和克服は八年の九月になる』とのことでした。そこで私は『しからば日本の連勝の結果として得る利益はどれくらいか』とおうかがいしますと、『支那の海岸のごく一部と朝鮮全部、樺太南部を日本が受ける』というお告げでした。約二時間にわたって種々お伺いしましたから、露国作戦計画から外交談判にいたるまで、詳細にお語り下さいました。…(下略)…」(『神の国』昭和10年5月号)
明治37年
(1904年)
明治36年
(1903)
9月10日
王仁三郎、「いろは歌(その二)」を執筆し、日露戦争、第一次・二次大戦などを予言。

※「いろは歌(その二)」はその後、機関誌『神霊界』大正6年11月号に掲載されました。

以下は「いろは歌(その二)」の抜粋。

  • こく(= ロシア)ばかりか亜米利加(アメリカ)までが、末に日本を奪る企画(たくみ)、金と便利に任せつつ。


  • しに亜米利加、北には露西亜(ロシア)、前と後に敵ひかへ、四方海なる日本国。


  • ん暴極まる畜生国(けものくに)、欲に眼光(まなこ)を曇らせて、我神国を屠らんと、日頃巧みし軍略は、旅順、大連、韓国に、計画外れて馬鹿を見む。石炭兵糧軍資まで、用意して置け旅順港に、今に日本が貰てやる。その返礼に日本刀、一度は切味見せてやろ。覚悟召されよスラブども。

科学技術文明の発展も予言しています。

  • かしの神の仕組まれし、最(いと)も便利な世が参り、蒸気、電気の働きで、三千世界を近よせる、交通機関も完備して、千里万里も夢の間に。是も昔の神代から、神の御裔(みすえ)の奇魂、奇しき力の賜ぞ。艮金神現はれて、世界一つに統べ給ふ、天の時節の来たものを、訳の分らぬ人民が、人知や科学の活(はたら)きと、誤解して居る憐れさよ。

岡山に関係のある(?)ものもあります。

  • しは備前の岡山育ち、米の生(な)る木は未だ知らぬ。綾部に生れた人でさへ、世の大本を未だ知らぬ。燈台下は真の暗。
明治37年、
(1904年)
大正3年、
(1914年)
昭和14年、
(1939年)
等。
明治45年
(大正元年)
(1912年)
王仁三郎、綾部神苑内で世界大戦のとして弓を引く。

※その様子を高弟の一人・湯浅仁斎が『出口王仁三郎の十年目の弟子』「聖師の日常は皆神業」でこう記しています。

「大正二年のことであります。当時約一ヶ年というものは、聖師様は非常にご熱心に弓を引かれました。…(中略)…
『私がこうやって毎日弓を引いているのは、これは神界からの一つの型やで、近いうちに世界に戦争が必ず起きてくる。わしは神様からその型をやらされている。戦争が必ず起きるが、しかもそれは世界戦争になろうやもしれん。それで外見はただ単に道楽的に弓をいじくっているように見えるかしらんが、私はこれで大きな仕事を神様に対してしているんやで。それで、もし不審に思うていろいろな事を言う者があったら、こういう事やと言うてやってくれ。私も嫌だけれども御用が多くてこんな事したくないけれども、神様の命令でせんならんのや』
とこう言うていられました。
    全く聖師の弓勢(ゆんぜい)は素晴しいもので、八分の強弓をお引きになられる。しかもそれが百発百中という素晴しい命中率でありました。…(下略)…」
大正3年
(1914年)
第一次世
界大戦勃
発。
大正6年
(1917年)
11、12月
王仁三郎、予言歌「いろは歌(その一)」(大正6年11月3日執筆)、「大本神歌」(大正6年12月1日執筆)を『神霊界』大正6年12月号、大正7年1・2月号に発表。

※日中戦争や日米戦争、ソ連参戦、太平洋戦争の状況が描写されています。

以下は「大本神歌」の抜粋。
  •             (一)
    東雲の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の国、四方に周(めぐ)らす和田の原、外国軍の攻(せめ)難き、神の造りし細矛(くわしほこ)、千足(ちたる)の国と称へしは、昔の夢と成りにけり。今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も、地上地中の選み無く、備え足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加(アメリカ)の、数より多き迦具槌(かぐづち)に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の行く末深く憐れみて、明治の二十五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝を取らせつつ、なお外国の襲来を、戒しめ諭し様々と、神の出口の口開き、詔(の)らせ給へど常暗の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで馬の耳、風吹く如き人心(ひとごころ)、アゝ如何にせん戊(つちのえ)の、午(うま)の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒波の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由(よし)も、なく泣く縋(すが)る神の前、水底潜(くぐ)る仇艦(あだふね)と、御空に轟く鳥船の、醜の荒(すさ)びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなる。

  •             (三)
    綾の高天に顕(あら)はれし、国常立の大神の、神諭(みこと)畏(かし)こみ謹みて、厳の御魂と現はれし、教御親の神勅(かみこと)に、日清間の戦ひは、演劇(しばい)に譬(たと)へて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟はこの度の、五年に亘(わた)りし世界戦、龍虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜(シベリア)線を花道と、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を盡(つく)し、工夫を凝らし神国を、併呑(ひとのみ)せんと寄せ来り、天の鳥船天を蔽(お)ひ、東の空に舞ひ狂ひ、ここに二段目幕が開く。三段いよいよ開く時、三千餘年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集る大本の、神に仕へし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心(やまとごころ)を振り起し、厳の雄猛び踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官に、直日の御魂を楯と為し、何の猶予も荒魂、爆裂弾の勇ぎ能(よ)く、神の軍の奇魂、奇しき勲功(いさお)は言霊の、天照る国の幸魂、言平和(ことむけやわ)す和魂、魂の助けの著るく、轟く御代を松の世の、四十有八(よそまりやつ)の生御魂、言霊閣に鎮まりて、四方の国々天の下、治めてここに千早振、神代乍(なが)らの祭政一致(まつりごと)、開き始めて日の本の、現津御神(あきつみかみ)に奉る、常磐の御代ぞ楽しけれ。

以下は「いろは歌(その一)」の抜粋。

  • う球につゞく台湾澎湖島(ぼうことう)、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人(やまとびと)、外国魂(とつくにたま)のこゝかしこ、国売る曲(まが)の多くして、主人(あるじ)の留守の間鍋(まなべ)たき、柱を崩すカミ斗(ばか)り、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。


  • い卵の危ふき国と成り成りて、成り合はざりし異国(ことくに)の、国主(こくしゅ)は位を降されて、夏なほ寒き西伯利亜(シベリア)の、荒野の果に追(や)らはれし、スラブ王家の憐れさは、聞くも涙の種なれど、我神国に刃向ひし、支那もスラブも天命の、免(のが)れぬ道と覚悟せよ。続いて三つ四つカラの国、神の御国に仇を為す、報いは今に火の車、乗りて奈落へ落ぶれの、悪魔の頭(かみ)ぞ憐れなる。


  • ん合の国の軍(いくさ)は強くとも、心は割れて四ツ五ツ、いつか勝負の果も無く、力は既にイングリス、艮(とどめ)に以太利(いたり)て雨リカの、フランス跡に地固めの、望みもつきてカイゼルの甲斐なき終り世の終り、金も兵糧も盡(つ)き果てゝ、互(かたみ)に臍(ほぞ)をかみながら、猶(な)ほ懲りずまに向きを替へ、良き支那物(しなもの)を奪はんと、命限りに寄せ来る、其時こそは面白き、茲(ここ)に仁義の神の国、豊葦原の足に掛け、蹴(く)え放(は)らゝかし息の根を、絶ちて悪魔を絶滅(うちたや)し、世界一つに統べ守り、祭政一致(かみよながら)の神政(みまつり)を、天地と共に楽しまむ。


  • ちこちの寺の金仏(かなぶつ)、金道具(かなどうぐ)、釣鐘までも鋳潰(いつぶ)して、御国を守る海陸の、軍(いくさ)の備へに充つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理(たぐり)の成ります金山(かなやま)の、彦の命の御代と化(な)り、下(しも)国民の持物も、金気(かなけ)の物は金(かな)火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代へても足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれ。


  • に挙(こぞ)り上は五十路の老人より、下は三五(= 十五)の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず、遠津御神の造らしゝ、御国を守る兵(つわ)ものと、日本(やまと)心を振起し、伊都の雄猛び踏み健(たけ)び、厳のころびを起しつゝ、海往(うみゆ)かば水潜(みづく)しかばね山往かば、草生(くさむ)す屍大君(おおぎみ)の、御為に死なむ徒(いたづ)らに、閑(のど)には死なじ一足も、顧みせじと弥進み、いや迫りつゝ、山の尾に、追伏せ散らし川の瀬に、追払ひつゝ、仇軍(あだいくさ)、服従(まつろ)へ和(やわ)して浦安の、御国を守れ秋津人(あきつびと)、現津御神と大八洲(おおやしま)、国知食(しろしめ)す天皇(すめらぎ)の、高き恵みに酬(むく)へかし、日本(やまと)島根の神の御子。
昭和12年、
(1937年)
昭和16年、
(1941年)
昭和20年、
(1945年)
等。
大正7年
(1918年)
1月
王仁三郎、正月に「教祖はん(出口直)のお体は今年中や。びっくりすなよ」と梅田安に告げる。

※「開祖様御昇天のことを王仁は神様から承って二年前から知っていた。それで貴賓館の名において教祖殿を造っておいた。当時金が無くて困っていたので、開祖様はたいそう御心配なされたので、八畳の間一ぱいに取っておいた金銀貨を積みあげてお目にかけたら、これで安心したと言うてたいそうお喜びになされた。十年事件以来みな出してしまったが、開祖様は御安心なされて御昇天になったのであった」(『玉鏡』「開祖様の御昇天」)
大正7年
(1918年)
11月6日
出口直昇
天。

第一次世
界大戦の
戦火が止
んだその
日。
大正8年
(1919年)
1月27日
王仁三郎、第一次大本事件の日(大正10年2月12日)を予言。

※『伊都能売神諭』(大正8年1月27日)にはこうあります。

「三千年の太平を、松竹梅の経綸(しぐみ)ぞよ。辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」

上記の神諭について、出口和明氏はこう解説しています。

「辛の酉は大正十年にあたる。紀元節に王仁三郎の拘引状が発せられ、翌十二日に検挙。『四四十六の花の春』は大正十六年、すなわち昭和二年五月十七日に免訴、事件が解決する。そして『凡夫の耳も菊(= 聞く)の年』で当局による事実無根の捏造まで交えた新聞各紙はおもしろおかしく大々的に扱い、立替え立直しの予言は、万人の耳目をそばだたしめたこと。旧九月八日には王仁三郎に対し、『神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ』との神示が出て、大本の根本教典である『霊界物語』の口述が示唆される。」(『予言・確言』出口和明著)
大正10年
(1921年)
2月12日
大正10年
(1921年)
1月
王仁三郎、本宮山神殿破壊開始の正確な日時(大正10年10月20日午後1時)を予言。

※『神霊界』大正10年1月号の「掃き寄せ集」の最後のほうで、王仁三郎は「切紙神示」を紹介しています。(「切紙神示」については、『霊界の最高機密 最終メッセージ編』出口和明著 をご参照ください。)

その中で、ある政客が大本の正体を見破るとして切り紙を組み立てると、「さて、この二大勢力(=「神」と「悪魔」)が衝突するのはいつかとみると、明らかに大正十年旧九月二十日午後一時と出る」と予言しています。

まさに大正10年10月20日(旧9月20日)午後1時、警察当局によって本宮山神殿の破壊が開始されました。

神殿が破壊されている同時刻、王仁三郎は本宮山の下にある松雲閣(祥雲閣)で神殿破壊の音を聞きながら、『霊界物語』の口述を始めていました。

『霊界物語』第1巻「序」の末尾には「大正十年十月二十日午後一時」と記されています。しかもこの時、王仁三郎は、正神と邪神との激戦を背景に、邪神の暴挙により国祖が隠退に追い込まれるまでの経緯を口述しています。なお、その筆録者は後に「生長の家」を創設する谷口正治(雅春)です。
大正10年
(1921年)
10月20日
午後1時
大正10年
(1921年)
11月4日
王仁三郎、原敬暗殺を予言。

※大本に第一次弾圧を加えた内閣主班原敬は、東京駅頭で「艮」の一字を名に持つ青年・中岡艮一のために刺殺されました。(「艮」は「艮の金神」こと「国祖国常立尊」を連想させます。)

その10時間ほど前、午前9時前後に王仁三郎は、綾部の祥雲閣で、その晩の原敬暗殺の場面を霊視し、そこにいた信者らにそのことを話しています。
大正10年
(1921年)
11月4日
大正12年
(1923)
王仁三郎、関東大震災を予言。

※王仁三郎はこの年の春に「今秋はじめに東京で大震災がある」と役員(筧清澄)に語っています。

※関東大震災が起こった日(9月1日)、王仁三郎は熊本県の山鹿温泉にいました。同行していた信者のひとりがこう述懐しています。

「…(前略)… 瑞月氏はじめ一行は、湯上がりのよい心地になって暫く午睡に落ちた。丁度この時間に東京方面大震災の最中であったとは後にてそれと知らされたのであった。夜に入って宇内丸氏の霊界物語拝読が午の巻の第二章と第三章であったことが後で偶然かさなくは一種の不思議であったことも思い合わされた。」(『神の国』河津雄「西遊随行記」四。大正12年10月25日号) 王仁三郎が宇内麿に命じ読ませた箇所は、霊界物語31巻2章「大地震」と3章「救世神」でした。翌日、震災の報が入りました。
大正12年
(1923年)
9月1日
大正13年
(1924年)
2月
王仁三郎、『錦の土産』で教団に侵入してくる悪霊を予言。

※『錦の土産』は王仁三郎自身の昇天についても予言しているほか、戦後の第三次大本事件とも関連しています。

以下は『錦の土産』の抜粋。

「伊都能売の御魂霊国の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし瑞月(= 王仁三郎の号)の体に来たりて口述発表したる霊界物語は、世界経綸上の一大神書なれば、教祖の伝達になれる神諭と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも、不屈不撓の精神をもって断行すべし、例へ二代(= 王仁三郎の妻・澄)三代(= 王仁三郎の長女・直日)の言と雖も、この事のみは廃すべからず。邪神界殊に八十八派(= 八十八は「八木」を指し、反瑞霊の拠点)の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し、月の西山に入りたる際(= 王仁三郎の昇天を指す)、得たり賢しと聖地へ侵入し来り、先ず第一に二代三代の身魂を誑惑せんと雄猛び襲ひ来るべし。然して自己の霊系の暴露するを恐れて、教祖の血統を盾に数多の信徒を魔道へ誘はんとするは、火を睹るよりも明白なる事実なり。注意すべし」
昭和23年
(1948年)
1月19日
および戦
後史
昭和6年
(1931年)
王仁三郎、満州事変やその後の諸戦争を予言。

※昭和6年は西暦1931年で「いくさのはじめ」、皇紀2591年で「じごくのはじめ」と、王仁三郎は冗談のように語っていました。

※この年の9月8日 本宮山に神声碑、教碑、歌碑の三基を建立。十日後の満州事変を予言していました。

「…(前略)… 九月八日は大本にとっては不思議な日であります。本宮山は一名桶伏山といって、大本教旨を書いた大きな天然石があって、彫刻したなりで時期が来るまでふせておいて蒙古入りをして帰って来てもまだ起す時機が来なかったのでありますが、その石を本年の九月に入って神様から始めて早く建ててくれと言われて建てた。うっかりしていたが後で気がついてみると新の九月八日に建て上げていた。それから、十日後の九月十八日には満州問題が起るとあらかじめ言っておいたがその通りに起りました。また本日が旧の九月八日であって新の十八日に当たっているのも不思議であります。
    これから世の中は一転機を来すが詳細はすでに『瑞の神歌』に発表しておいた通りでありまして、お筆先に十年あるいは十二年延びると神示されてある通り、いよいよ十二年延びて本舞台に入ったのであります。信者の方は緊張して神様の御心を覚って大活動をなし、これから来るべき世の大峠を越えるように努めて頂きたいと思うのであります。…(下略)…」(『真如の光』昭和6年10月18日の講話)
昭和6年
(1931年)
昭和7年
(1932年)
2月4日
王仁三郎、第二次大戦やその他の艱難を預言。

※節分祭当夜、王仁三郎は、みろく殿で『瑞の神歌』を引用しつつ「大本の経綸と満蒙」を講演しました。

「…(前略)… この満四十周年に際して、神さまがかねて御警告になっておりましたシベリア線を花道とするということがいよいよ実現してきたのでありますから …(下略)…」(『神の国』昭和7年3月号「大本の経綸と満蒙」)

『瑞の神歌』は大正10年1月2日に発行されていましたが、満州事変後の時局に対応して、昭和7年1月30日に再版されました。この予言文書には、以前『神霊界』誌上で発表されていた「大本神歌」、「いろは歌(その一)」、「いろは歌(その二)」が収録されています。
昭和14年、
(1939年)
等。
昭和10年
(1935年)
王仁三郎、日本の第二次世界大戦参戦や第二次大本事件を予言。

※王仁三郎はこう語っています。

「『戦争があるとか無いとか、また景気が好くなるとか好くならないとか、新聞や雑誌または単行本によって人々が迷うておりますが』と聞く人が、結論は既にきまっている。瑞の神歌によって神示されている通りじゃ。何も迷うことはない。断固としていったらよいのじゃ。よくなるようで、それは一時の現象か、または策謀によるものであって、次第に悪く次第に迫る道程に過ぎない。八岐の大蛇の迫りきたってただ一つ残された国、奇稲田姫なる日本を併呑せんとする事は免れ得ぬことになっている。いろいろの宣伝や迷論に迷うては取り返しのつかぬことになる。一路神示のままに邁進することじゃ。…(下略)…」(『玉鏡』「大和魂」)

※この年の9月下旬、王仁三郎は幹部・職員に対し、長髪、髭を落とすよう命じています。第二次大本事件で投獄され、拷問を受けることなどを見ていたのでしょう。

※12月8日に第二次大本事件が発生。予言的な型として、第二次大本事件と第二次世界大戦が6年でスライド相応しています。
  • 昭和9年7月22日(昭和神聖会発会式) ⇒ 昭和15年7月22日(第二次近衛内閣成立)

  • 昭和10年12月8日(第二次大本事件) ⇒ 昭和16年12月8日(太平洋戦争勃発)

  • 昭和11年4月18日(綾部・亀岡の不当譲渡) ⇒ 昭和17年4月18日(東京初空襲)

  • 昭和20年9月8日(大審院判決) ⇒ 昭和26年9月8日(サンフランシスコ講和条約締結)
昭和10年
(1935年)
12月8日、
昭和16年
(1941年)
12月8日
昭和11年
(1936年)
3月11日
王仁三郎、自らの無罪を予言。

※王仁三郎は第二次大本事件のために投獄されました。獄中に撮影された写真で、王仁三郎は六本指を使って「無罪」を予言しています。(下写真参照)

獄中では、投獄された信者らの出獄の日などを知らせ、勇気づけていました。


六本指で「無罪」のサイン
昭和20年
(1945年)
昭和17年
(1942年)
8月7日
王仁三郎、日本の敗戦を予言。

※この日、王仁三郎は6年8ヵ月(2435日)の獄から出所し、熊野館に戻ってきました。帰ってくるなり、「わしが出た今日から日本は負けはじめや」と放言(?)しましたが、果たして、ちょうどこの日、米海兵一個師団がソロモン群島のツラギおよびガダルカナル島に上陸、第一次ソロモン海戦が行われ、米軍の本格的反撃が開始されました。
昭和20年
(1945年)
8月15日
昭和18年
(1943年)
王仁三郎、日本の戦時下の状況を予言。

※「今年(= 昭和18年)は未の年で羊は下にいて草を食っているから苦しみ、来年は申の年で猿は木の上にいるから上が苦しむ(食糧に)」(『新月の影』木庭次守著)

「聖師は『羊は土の上で草を食(は)むので民のことで、猿は木の上にすむので中流のこと、鳥は空を飛ぶので上流のことで、未の年(= 昭和18年)は民が苦しみ、申の年(= 昭和19年)は中流が苦しみ、酉の年(= 昭和20年)は上流が苦しむ』と教えられた」(『新月の影』)

※「王仁三郎は早くから日本および独・伊の敗北を確言、それは全国ほとんどの信者たちにゆきわたっていた。そのうえ、根室からきた信者には「千島列島がなくなる」と語り、台湾がうしなわれることも伝えていた。…(中略)… 「いったんは日本は米国の支配におかれるが、それもしばらくの間や」「日本の敗戦後は米ソ二大陣営の対立……」などと語った。空襲についても「東京は空襲されるから疎開するように」、「大阪も焼野原になる」「広島と長崎はだめ」「九州は空襲だ」、反対に「京都は安全、「金沢は空襲を受けない」とおしえ、伊勢空襲をも示唆し、昭和十九年頃には「全国おもな都市は灰になる」と警告した。これらを信じた者はすべて救われ、大難を小難に、小難を無難に大峠をこえている」(『予言・確言』出口和明著)
昭和18年
(1943年)
およびそ
れ以降
昭和18年
(1943年)
10月
王仁三郎、連合国軍の勝利を予言。

※「王仁三郎の戦争批判は若い頃から一貫したものであったが、『今は悪魔と悪魔の戦いで人殺しの戦争だから、力のつよいほうが勝つ』と言い、戦争に協力しないよう信者を指導した。「今度の戦争は生き残るのが第一の神徳だから、お守りをやる」と、第一線へ立つ出征兵士には「我敵大勝利」と書きそえたお守りを与えた。これはあぶないと人に言われて、ちょっと考え、我敵大勝利の横に「米英の号外」と書き加える。『すすんで危い所に行かぬように』とさとし、『鉄砲は空に向けて撃て』と教えた。『日本は敗けても世界のかがみになるのやで、これからどんなこわいことがあっても神さまにすがっておればよい。惟神霊幸倍坐世と言えば神さまにつながる。『月鏡』のなかの「悪魔の世界」とあるところをよんでおけ』『大本が弾圧を受けたので、戦争に協力しないですんでいるのだ。これが将来に大きな証明になるのや』と信者たちにもらしてもいた。」(『予言・確言』出口和明著)
昭和20年
(1945年)
昭和18年
(1943年)
11月
王仁三郎、ソ連の参戦を予言。

※「昭和18年11月に満州の部隊に入隊する信者の子弟には三十六もの拇印を押した腹帯を与え、『日本は負ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗が立つ。そしたらすぐ道院へ行け』と指示した。」(『予言・確言』出口和明著)
昭和20年
(1945年)
昭和19年
(1944年)
1月
王仁三郎、ソ連の参戦を再び予言。

※「東満総省長の三谷清のもとへは、信者を通じて王仁三郎の言葉が伝えられる。『今、日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から白猿(= ソ連)に両眼を掻(か)きまわされる』」(『予言・確言』出口和明著)

『霊界物語』第43巻2〜3章に、玉国別が白毛の猿に眼をかきむしられる話が登場します。これについて王仁三郎は、玉国別は日本、白毛の猿はロシアであると語ったことがあります。
昭和20年
(1945年)
昭和19年
(1944)
5月
王仁三郎、天皇制の崩壊を予言。

※「グロスの島の物語(『霊界物語』第78巻)がいよいよ実現するのである。天津神が国津神になり、国津神が天津神になる。白紙で頼んだら王仁がでてやるのでその時になったら、悪い者は一番に馘にしてしまう。そうせぬと大改革はできぬ」(『新月の影』木庭次守著)
昭和20年
(1945年)
昭和19年
(1944年)
7月
王仁三郎、東条内閣、小磯内閣、米内内閣について予言。

※「昭和十九年七月十八日、東条内閣が総辞職し、小磯国昭(くにあき)内閣(小磯・米内(よない)内閣)にかわる。王仁三郎は『小磯がしうて米内(ようない)なあ』、ソロモン戦からソロソロ負けて、小磯づたいに米(べい、= 米国)内(うち)にいる。小磯米内国昭(こいそようないくにあけ)わたす』とうたい、昭和二十年四月五日に小磯内閣が総辞職して鈴木貫太郎内閣になると『いよいよ日本は鈴木野(すすきの)や』、『これが日本のバドリオ(ムッソリーニ失脚後、イタリアの首相兼外相となり、ファシスタ党を解党して連合国に降伏)や。お筆先にも長うは続かんぞよとあるように、長うは鈴木貫太郎(つづかんだろう)』と語る。」(『予言・確言』出口和明著)

※「東条英機内閣のときには『東条が英機(えいき = つよい気)になって神風は頼むなと言っているから神風は吹かん』と教える。事件(= 第二次大本事件)前、王仁三郎は築地の料亭常磐(ときわ)で東条英機と二、三度会っていた。大国以都雄が陪席(ばいせき)したおりであったが、『軍部があまり強く出ては国をつぶす。軍部の考えは十年以上早すぎる』と王仁三郎がさとしたところ『宗教家のくせ何をぬかすか』と東条は腹を立てた。『その考えが国をあやまるのや。わしには先が見える。わかっているから注意するのだ』とかさねての王仁三郎の言葉にも、彼は応じなかったという。」(『予言・確言』)
昭和19年
(1944年)
およびそ
れ以降
昭和19年
(1944年)
6月末
王仁三郎、日本が台湾を失うことを予言。

※台湾を失うことに関して、王仁三郎は「『霊界物語』第51巻16章「暗闘」を読んで下さい」と語っています。

実際、その章には「…(前略)… しまいには、ただ一つよりない大椀(台湾)まで逃げ出すかも知れぬぞ。なにほど琉球そに言うても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ。…(後略)… 」とあります。
昭和20年
(1945年)
昭和19年
(1944年)
王仁三郎、広島の原爆投下を予言。

※王仁三郎は昭和19年秋から「広島はひどいめにあう」と語っています。広島から中矢田農園に王仁三郎を訪問した信者に「なにをぼやぼやしとるか」と叱り、「広島は危ないから、帰ったらすぐに疎開せよ」と指示しています。疎開指示の話は多くあります。

※「『火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ』、『新兵器の戦いや』、『東洋に一つおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている』……昭和十九年に面会にきた広島の信者には、『戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ』と疎開をいそがせ、あるいは『広島は戦争末期に最大の被害を受け、火の海と化す。……そのあとで水に洗われるんや。きれいにしてもらえるのや』とも言った。広島は八月に原爆をうけ、九月には二度も大水害に見まわれた。」(『予言・確言』出口和明著)
昭和20年
(1945年)
昭和20年
(1945年)
敗戦直前
王仁三郎、日本の敗戦と米国の役割を予言。

※以下は出口栄二著『大本教事件』の抜粋。

「外国軍隊による支配についても、敗戦の一週間前に綾部の山水荘(= 王仁三郎の居宅)で、『神風でも吹かして日本を勝たせてください』とたのんだ開祖時代からの古い信者に、『心配するな、今度はアメリカが日本にきて、ええ御用をするんや』とさとしていた。その「ええ御用」について王仁三郎はつぎのように語っている
『日本はな、世界を一軒の家にたとえると神床にあたるのや。所が、その神床が非常に汚れて塵埃が溜まっている。掃除をせねばならぬのだが、日本人自身にやらせると血で血を洗う騒ぎをくりかえすばかりで出来はせん。神様はマ元帥という外国出身の荒男をつれてきて掃除をさせられるのや。つぎに座敷じゃ。世界の座敷は朝鮮と中国である。つぎに庭先の掃除が必要となってくる。世界の庭先とはソ連や米国にあたるのや』と。」

※「昭和二十年八月十五日、この日は私(= 出口和明)の十五歳の誕生日であった。祝いに集まってくれた家族やいとこたちともに、祖父を囲んで玉音放送を聞いた。王仁三郎は『マッカーサー(負かさ)れた』と笑い出すが、私はぷいと立って家をとび出し、近くの寺川の水にもぐりこんで一人で泣いた。…(後略)… 」(『予言・確言』出口和明著)

※「八月十五日」という日については、大正時代から染筆するなど予示されていました。「『霊界物語』天祥地瑞篇(第73巻〜第81巻)も昭和8年旧8月15日に口述が開始され、翌年新8月15日に口述を終えています。


王仁三郎染筆「八月十五日」
昭和20年
(1945年)
およびそ
れ以降
昭和20年
(1945年)
王仁三郎、第三次大本事件を予言。

※王仁三郎はかつて「大本事件はこれで終わったわけではない。大本事件は三度まである。松竹梅事件じゃ」と語ったことがあります。

王仁三郎は第一次大本事件で大阪田の大正日日新聞社社長室から、第二次大本事件では島根の江から検挙されました。三度目は「竹だ」と予言し、竹は内がカラなので、第三次大本事件は内から起こるということでした。

その予言どおり、昭和55年3月9日に「いづとみづの会」が設立され、大本教団改革運動が始まります。この運動がのちに「第三次大本事件」へと発展します。

兵庫県田別院の所属問題が第三次大本事件の直接の火種となり、まさに第三次大本事件はうちわ(内部)から起きました。王仁三郎は「竹だ、竹だ」と、発火地点まで的確に予言していました。
昭和55年
(1980年)
昭和20年
(1945年)
12月30日
王仁三郎、天皇の人間宣言を行い、日本の尊い使命について語る。

※昭和20年12月30日、王仁三郎が鳥取県の吉岡温泉で行った発言(いわゆる「吉岡発言」)が大阪朝日新聞に掲載されました。以下はその要約です。
  • 自分はただ全宇宙の統一平和を願うばかりだ。

  • 日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧をうけた。

  • 国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。しかし大和民族は絶対に亡びるものでない。

  • いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。

  • 本当の世界平和は全世界の軍備が撤廃した時にはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。
吉岡発言の全文を読む
昭和21年
(1946年)
王仁三郎
存命中
王仁三郎、未来について語る。

●五十世紀の地球
「松彦『…(前略)… 現界は二十世紀という、魂の小さい人間の住まっていた時代を超過し、既に三千年暮れている。現界で言えば、キリストが現れてから五十世紀の今日だ。世はだんだん開けるにつけて、地上の人間は労苦を厭い、歩くのにも電車だとか、自動車、汽車、風車、羽車などに乗って天地間を往復し、少しも手足を使わないものだから、身体はおいおいと虚弱になって、もはや五十世紀の今日では、コンナ弱々しい人間になってしまったのだ。しかしながら、十九世紀の終わりから二十世紀にかけて芽を吹き出した、三五教の教を信じ不言実行につとめ、労苦を楽しみとしている人間の系統に限って、それと反対に六尺以上の体躯を保ち、現幽神界において、神の生宮として活動しているミロク人種もありますよ』」(『霊界物語』第15巻20章「五十世紀」

●空中に文字を発信(Eメール等か?)
「松彦『昔のように今日(= 五十世紀)の時代は、毛筆や、鉛筆や、万年筆などの必要はありません。ただ指先をもって空中に七十五声の文字を記せば、配達夫はただちに配達してくれますよ。…(中略)… この交通機関は二十一世紀の初期から開始されたのですよ』」(『霊界物語』第15巻21章「帰顕」

●二十四世紀は天国浄土の完成時代
「弥次彦『…(前略)… 二十四世紀の今日に、原始時代のような、古い頭を持っているから判らぬのだ。今日の娑婆をなんと考えている、天国浄土の完成時代だ。中空を翔ける飛行機、飛行船はすでに廃物となり、天の羽衣という精巧無比の機械が発明され、汽車は宙を走って一時間に五百マイルという速力だ。蓮華の花は所狭きまで咲きみだれ、何ともかとも知れない黄金世界が現出してをるのだ。…(後略)… 』」(『霊界物語』第14巻8章「泥の川」

●ミロクの世について
「ミロクの世になれば寝ながらにして地の中を通ることができ、空をも、また水中をも通ることができると言うてあるが、寝ながら通る地中というのは地下鉄道のことで、寝ながら通る空というのは飛行機、飛行船のこと、水の中を通るというのは潜水艦のことであって、今がその予言の出てきた時代なのである。また蒙古には、黒蛇が世界中を取り巻き、牛や馬が物言うときに成吉思汗が再臨してわが国土を救う、という予言があるが、それも現代のことである。すなわち黒蛇とは鉄道のことであり、牛馬がものを言うのは、人間がひどく堕落して、狐狸牛馬などの容器になってくることをいうたものである。」(『月鏡』)

「"みろくの世" といっても、人間の社会に変わりはない。善悪美醜相交わって成る人間のうち、悪がはみ出してきても不思議はない。社会的制裁用のイヤリング(耳飾り)なんかがあるという。おシャレの装身具も、価値観の変化で違った利用のされかたになるものだ。」(『予言・確言』)

●霊気が電気に取って代わる
「…(前略)… 無線電信や、電話やラヂオが活用され来たるは、五六七(ミロク)の神政の魁として、もっとも結構なことなり。しかしながら物には一利一害のともなうものにして、善悪相混じ、美醜たがいに交わる造化の法則に漏れず、便利なればなるほど、一方にまたそれに匹敵するところの不便利なることが出来るものなり。電気なるものは、前述のごとく宇宙の霊素、体素より生成したものなるが、その電気の濫用のために、宇宙の霊妙なる精気を費消すればするだけ、反対に邪気を発生せしめて宇宙の精気を抹消し、ために人間その一切の生物をして軟弱ならしめ、精神的に退化せしめ、邪悪の気宇宙に充つれば満つるほど、空気は濁り悪病発生し害虫増加す。されど今日の人間としては、これ以上の発明は未だ出来てをらず、ゆえに五六七神政の過渡時代においては、もっとも有益にして必要なものとなりをるなり。も一歩進みて不増不減の霊気をもって電気に代えることになれば、宇宙に忌まわしき邪気の発生を防ぎ、至粋至純の精気によりて、世界は完全に治まり来るなり。この域に達するにも、今日のごとき浅薄なるものを捨て、神霊に目醒めざるべからず。大本信者の中には、電気燈を排斥する方々が、たまたまあるやに聞けども、それはあまり気が早すぎるなり。これ以上の文明利器が発明されて、昔の行燈が不用になりしごとくに、電燈不用の時機に電気を廃すればよし。
  また宇宙には無限の精気が充満せるゆえ、何ほど電気を消費しても無尽蔵なり。決して、無くなるといふ心配はいらず。また一旦電気濫費より発生したる邪気も宇宙無限の水火の活動によりて、新陳代謝が始終行なわれをるゆえ大丈夫なり。この新陳代謝の活用こそ、神典にいわゆる祓戸四柱の大神の不断的活動によるものなり。…(下略)…」(『霊界物語』第4巻50章「神示の宇宙 五」

●ラジオは気候を調節する
「西村さんがフランスから帰朝の途次シベリアを通過して、気候が案外暖かであったというていたが、近来地上の気候はラヂオ使用のため大気に大変化をきたしておるのである。神諭になる『世界中を舛かけ曳きならす』ということを皆が小さい意味にとって、国土とか、経済とかの上とのみ思っておるようであるが、神様の舛かけ曳きならsっはそんな狭義の意味のものではない。気候までも舛かけ曳きならされるのであって、ラヂオもその働きの一部分をつとめているのである。ラヂオは音波を輸送するごとくに、寒気、熱気をも輸送するもので、寒帯の寒気は熱帯に運ばれ、熱帯の熱気は寒帯に運ばれて世界中の温度がだんだん平均してくるのである。平均するというても、比較的のことであって、熱帯はやはり暑く、寒帯は冷たいが、寒暑の度が今までのように激烈でないように調節されるのである。温帯はあまり変化はない。『北がよくなるぞよ』との神諭もまた這般の消息を伝えているのである。また大本祝詞の『暑さも寒さもやわらかに云々』とあるもこの事である」(『水鏡』)

●世界が十二のブロックに編成される
「…(前略)… 是から世界は十二ヶ国に約まりて日本の一つの王で治まるのであるが、其所に成る迄には世界に大混雑が湧いて来るから、余程確りと腹帯を締ておかんと、途中で腹が破れるやうな事が出来いたすぞよ。…(下略)…」(『伊都能売神諭』大正八年一月二日)

●経済ブロックの創設
「皇道経済実現には、第一に自給自足の経済ブロック圏を創設することである。山陰ブロック、山陽ブロック、四国ブロック等々で、ブロック圏相互に有無相通ずることである。だんだん大きくして日本ブロック。それからアジアブロック、アメリカブロック、エウロッパブロック。アフリカブロック。オーストラリアブロック。北米ブロック。南米ブロックと大きい経済ブロックを創設して大きいブロック相互の有無相通によって、全地球の自給自足経済までに拡がって行くことが神の経済経綸である」(『新月の影』昭和18年)

●飛行機は不要になる
比村「みろくの世には飛行機は要らないとありますが」
出口氏「みろくの世には飛行機よりももっと良いものが出来るからだ。今の飛行機みたいにあんな事をしないでもよいようになる」(『昭和青年』「出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会」昭和7年12月号)

●都市の構造
「都市の構造といえば、円形に近い街区となり、ローマのコロシアム風な余裕のなる広がりを示し、各都市の中心部の広場には精神的な施設の建物、文化センターなどが営まれて、いわゆる文化のエリアとも称すべきものとなる。都市の人口は十万人が理想とされるが、世界の各地にはそれぞれの風土的特色が加味されていく。」(『予言・確言』出口和明著)

●未来の乗り物
「また、時速七百キロの弾丸列車が地上に浮いてブーッと行くのだと王仁三郎は表現した。こんにちで言うエアーカーやリニアエアーカーを示しているのだろうが、当時はそんな言葉も二百キロの新幹線も生まれていない。東京、ニューヨーク間は四十五分、地球上のあらゆる地点へ行くのに三時間ですむようになる。世界日帰り旅行も可能で、地球はせまくなる。土の中をもぐって行く交通機関(地下鉄に非ず)、つまり土を掘りながら進む乗物ができるという。航空機とは別に、風車や羽車を駆使して自由自在に空がとべると、大正十一年に言っている。絶対に落ちない飛行機ができるとも断言しているから、現在の航空原理とは異なった次元の飛行機が生まれるのか。」(『予言・確言』出口和明著)

●人口問題について
「王仁三郎の予知は人口問題にもわたる。夫婦間には自然に二、三人の子供しか生まれないようになるから、生存競争に苦しむことはなくなる。一部の学者が心配するほど、地球上に人間があふれ出る懸念は杞憂となりそうだ。王仁三郎によれば、地球上での理想的な人口は五十六億七千万人という。一夫一婦制の原則がくずれることはないと言っている。体質も変わってきて、寿命がますますのび、二百歳ぐらいから老化現象がはじまるくらいだ。寿命が伸ばされる以上、それに見合った社会の仕組となるだろうが、具体的にどうなるかはわからない。」(『予言・確言』出口和明著)

●労働時間は一日三時間に
「労働時間は一日三時間に、人によっては一時間だけでもいい状態になるという。月に五日の基本的休日のほかに、祭日が三日、つごうで八日の休日を予見しており、各個人の状況に応じて一ヵ月分ないし一年分にまとめてとってもよいようになる。余暇には、霊的向上を培うような芸術的修練がそれぞれの志向によって楽しまれるであろう。」(『予言・確言』)

●教育はまず胎教から
「教育はまず胎教から始まる。母親の霊的向上に力点が置かれるのだろう。年代を三段階に分けて十三歳以下は小国民教育、二十歳以下は中国民教育、二十歳以上を大国民教育とする。低い年齢層には、女性の教員が担当する。天才教育 — つまり各自の天賦の才能を引き出す時期は中国民教育課程である。小国民教育ではとくに伝記・地理・歴史を重視するが、総体的には、感恩・鍛練・順序(事柄の本末)が教育の三大眼目に据えられて、知育・徳育・体育・技育が配されると予言する。愛の心をはぐくみ育てるために子供のときから農業に従事させて物を育てること、土に親しむことの喜びを教える。世間へ出てからの資格をとるための教育は姿を消し、人格の育成、人間と人間がじかに触れ合う昔の塾に似た形のものが尊ばれる。いい意味での学校組織は残され、質的な向上が目ざされると言っている。」(『予言・確言』出口和明著)

●宗教がなくなる世がみろくの世
「各宗教がその最大公約数とすべき人類の "和" を、いかに具現するかが宗教者の究極の眼目であって、それ以外の "宗教" は不用になる。マルクスの言う宗教否定とは異なる次元において、宗教はなくなるであろう。各人の身魂の立替え立直しが完了して、神と一体化する世、王仁三郎も「宗教がなくなる世がみろくの世だ」と言っている。」(『予言・確言』出口和明著)
現在およ
び未来




山形県西村山支部に於ける王仁三郎