王仁三郎が岡山に残した足跡をたどってみましょう。



熊山

岡山県南東部の赤磐市に位置する500m峰。

昭和5年5月20日に出口王仁三郎が登山しています。

この熊山について、側近の加藤明子は出口王仁三郎から次のように聞いたそうです。


王仁三郎夫妻
(台湾別院観星閣にて)

…(前略)…熊山は実に霊地である。名が高熊山(※註)に似通つて居るし、此山はここら辺りの群山を圧して高いから其意味に於ける高熊山である。全山三つ葉躑躅が生茂つて居るのも面白い。四国の屋島、五剣山なども指呼の間にあり、伯耆の大山も見えると言ふではないか。…(下略)…
(『月鏡』「熊山にお伴して」 全文を見る あいぜん出版)

※高熊山(たかくまやま)は京都府亀岡市穴太にある霊山です。王仁三郎はここで修行をし、救世の使命を自覚しました。


熊山山頂からの景色(※画像をクリックすると拡大します)


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熊山遺跡(国指定史跡)

熊山山頂にある三段方形の石積遺構。奈良時代の築成と考えられているようです。


熊山遺跡(※画像をクリックすると拡大します)


この遺構について、出口王仁三郎は次のように記しています。
 岡山県和気郡熊山の山頂にある戒壇(註 熊山遺跡のこと)は、神素盞嗚大神様の御陵である。古昔(こせき)出雲の国と称せられたる地点は、近江の琵琶湖以西の総称であって、素盞嗚大神様のうしはぎ給うた土地である。湖の以東は天照大神様の御領分であつた。この故に誓約はその中央にある天の真奈井すなわち琵琶湖で行われたのである。出雲の国というのは、いづくもの国の意にて、決して現今の島根県に限られたわけではないのである。素盞嗚大神様は八頭八尾の大蛇を御退治なされて後、櫛稲田姫と寿賀の宮に住まれた。尊百年の後出雲の国のうち、最上清浄の地を選び、御尊骸を納め奉った。これ備前国和気の熊山である。大蛇を断られた十握の剣も同所に納まっているのである。かの日本書紀にある「素盞嗚尊の蛇を断りたまえる剣は今吉備の神部の許(ところ)にあり、云々」とあるが熊山のことである。この戒壇と称うる石壇は、考古学者も何とも鑑定がつかぬと言うているそうであるが、そのはずである。
 ちなみに熊山の麓なる伊部町は伊部焼の産地であるが、大蛇退治に使用されたる酒甕はすなわちこの地で焼かれたものである。伊部は忌部の義であり、また斎部の意である。(『月鏡』「素尊御陵」 あいぜん出版)

伊部焼(備前焼のうち、伊部で産するもの)で有名な伊部町のほかにも、熊山の麓には刀剣で有名な長船(おさふね)町があります。

「備前長船」といえば、同地で産する日本刀のことです。一遍上人聖絵で有名な備前福岡の市が流通拠点となり、備前刀が長船から全国に流通しました。九州の「福岡」という地名は、備前福岡に由来しています。

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向山

JR山陽本線万富駅から車で5分のところにある山。
ここにはかつて大本の中国別院がありました。
現在は向山公園として人々に親しまれています。


向山(※画像をクリックすると拡大します)


自著『庚午日記』(昭和5年5月の歌日記)の中で、出口王仁三郎は次の歌を詠んでいます。
  • 向山の麓に車乗り捨てて又山駕籠にかつがれて行く
  • その形川の流るる状までが本宮山(ほんぐうやま)に生写しなる
    ※本宮山は京都府綾部市にある愛善苑の聖地のひとつ。
  • 山頂に登りて四方を見渡せば吉井の流れを汽車の行く見ゆ

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中国別院歌碑(向山歌碑)

中国別院開院式(昭和9年5月1日)の時に出口王仁三郎が揮毫した歌15首を詠んだ歌碑。


中国別院歌碑(※画像をクリックすると拡大します)


中国別院歌碑

      [表面]
  • 皇神の誠ひとつの御教を永久にいかさむ吉備の国原
  • 山紫水明比ぶものなき神国に千代の命の道ひらくなり
  • 月も日も五六七のたちに向山の尾根ゆ照らさむ神の光を
  • 更生の霊気ただやう日の本のはるを抱きて照れる高殿
  • まめ人の誠ひとつの活動に向山聖地はかがやき初めたる
  • むかふ山の春を遊びて天津国の清き姿をしのびぬるかな
  • 本宮山尾の上の松にかかる月の影もおぼろに櫻咲くなり
  • 吉井川のぼる小舟のまほ片帆水そこしろくかげはゆる見ゆ
      [裏面]
  • つつじ咲く向山はやしを戦がせて吹く春風に鶯の啼く
  • 白布をさらせし如く見ゆるかな吉井の川の清き流れは
  • 青垣山よもにめぐらす向山のもすそを洗ふ吉井の流れよ
  • くまやまの尾の上に澄める月かげをあほげばすがしむかふ山のたち
  • 天津日はたかくまやまの頂上をあかねに染めて今のぼるなり
  • 熊山の尾の上に朝日かがやきてふもとに遊ぶ吉井の川霧
  • 青山の渓間を縫ひて落ち合へるながれ吉井の水は長しも

この歌碑について、当時の機関誌『真如の光』はこう述べています。
…(前略)…尚此の歌碑は聖師様(註 出口王仁三郎のこと)より日本一の歌碑の御言葉を頂きたる立派なるもので、花崗岩にて高さ八尺横巾十六尺重量二千八百貫である。
第二次大本事件(昭和10年12月8日)をきっかけに官憲の手で破壊されました。
現在の歌碑は戦後になって再建されたものです。


破壊された中国別院歌碑
(※画像をクリックすると拡大します)



血洗の滝

素盞嗚尊が出雲で八岐大蛇を斬った際に、十握の剣に付いた血を洗い清めたと言い伝えられる滝。

滝のそばの石碑には出雲の千家尊愛(せんけたかちか)氏による次の歌が刻まれています。

御剣(みつるぎ)をあらひましけん古言(ふること)のながれて清き瀧やこのたき



血洗の滝(左)と滝のそばにある千家尊愛氏の歌碑(右)
(※画像をクリックすると拡大します)


余談ですが、王仁三郎は千家尊愛氏をこう評しています。
 私が生まれてこのかた、この人はと尊敬の念をもって接した人は前後たった一人しか無い。千家尊愛その人である。もはや故人となったが大きな器であった。
(『月鏡』「偉人千家尊愛」 あいぜん出版)

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石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)

岡山県赤磐市石上にある備前古一宮。

現在のご祭神は素盞嗚尊ですが、明治初期までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣に宿る「布都御魂」という神霊でした。


石上布都魂神社
(※画像をクリックすると拡大します)


『日本書記』には、
  • 一書第三「其素盞嗚尊断蛇之剣今在吉備神部許也」
    (其の素蓋鳴尊の、蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り)
  • 一書第二「其断蛇剣号日蛇之鹿正此今在石上也」
    (其の蛇を断りし剣をば、号けて蛇之鹿と日ふ。此は今石上に在す)
とあり、吉備の神部にあるこの剣を祀ったのが、石上布都魂神社の創始と伝えられています。

その後、この剣は祟神天皇の御代に大和国の石上神宮に移されたとされています。実際、大正15年発行の石上神宮由緒記には、「もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」とあります。

石上布都魂神社の社殿は大松山の中腹にありますが、そこからさらに奥へ登り山頂に行くと、本宮(奥の院)と磐座があります。もとはこの本宮に社殿があったのですが、明治末期に火災で焼失したため、現在の中腹の地に再建されました。


本宮の磐座
(※画像をクリックすると拡大します)


山頂の磐座はとても大きく荘厳で、その神々しい姿に圧倒されます。
素盞嗚尊の神代に思いを馳せながら、神聖な霊気に触れることができるかもしれません。


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中国別院歌碑除幕式に臨む王仁三郎(昭和9年11月1日)